鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、越後国佐橋庄南条(現在の新潟
県柏崎市)から安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移った後に
国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。
戦国時代には国人領主からついに戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方最大の
勢力となる。 しかし1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となり、敗戦後、
周防国・長門国の2ヶ国に減封されるも、江戸時代を通じて安泰であった。
江戸時代末期には長州藩から数々の優秀な志士が現れ、明治維新を成就させ
る原動力となった。
長府の地名は「長門国府」にちなむ。府中と呼ばれた時期もあった。また、関連する地名として
豊浦 (とよら) という古名があり、これを校名にする学校がある。(豊浦小学校、豊浦高等学校)
戦国時代には山口に拠点を置いた守護大名・大内氏 (大内義長) が、それぞれ長府の地で
滅亡した。江戸時代に入ってからは、長州藩の支藩・長府藩設置により長府毛利家が陣屋
(櫛崎城) を構え、その周辺に武家屋敷が広がることになった。幕末には、高杉晋作が長州
藩内の佐幕打倒を図り功山寺で決起した。
写真撮影 松本 憲治様 白壁の町並み(昔の武家屋敷) 功山寺(こうざんじ)
長府毛利家の菩提寺。山号は金山(きんざん)中国三十三観音霊場第十九番
札所、山陽花の寺二十四か寺第九番。仏殿は、善福院釈迦堂とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝
に指定されている。嘉暦2年(1327年)、虚庵玄寂を開山として臨済宗の長福寺として創建された。
開基は北条時直と推定されている。なお、仏殿の建立は上記創建年より早い元応
2年(1320年)である。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年
(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど、朝野の尊崇を得て栄えた。
室町時代には大内氏の庇護を得、文明8年(1476年)には大内政弘によって復興
された。弘治3年(1557年)周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、
寺は一時衰退する。慶長7年(1602年)長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺と
して再興した。慶安3年(1650年)秀元の没後、功山寺に改名された。
幕末の文久3年(1863年)七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。
高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。
長府庭園
長府毛利藩の家老格であった西運長の屋敷跡で小高い山を背にした約31.000㎡の
敷は池を中心に書院、茶室、あずまやが残された回遊式庭園。
平成5年5月開園。池の中心にした庭エリア・滝の流れと草花のエリア・森の石仏
など鑑賞できるエリアそして駐車場を含めた総合広場の4つのエリアからなります。
色とりどりの花が訪れる人々をお待ちしております。特に7月中旬から8月にかけ、
紅色の花をつける孫文連は、美しく池の鯉と共に庭園をより鮮やかに表現します。