金閣鹿苑寺  (ろくおんじ京都市北区)

鹿苑寺臨済宗相国寺派の。寺名は足利義満法名に因む。山号北山(ほくざん)
寺紋は
五七桐室町時代前期の北山文化を代表する建築で、1994(平成6年)に古都
京都の文化財
として世界遺産に登録された。 中心となる建築物である舎利殿を金閣
寺院全体を金閣寺と通称する。

三島由紀夫小説『金閣寺』1956新潮社から刊行され、翌年に読売文学
(小説部門)を受賞。累計330万部を超えるベストセラー小説である。
精緻な文体で記述され、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされる。
多数の言語に訳され、海外でも評価は高い。


不動堂

             夕佳亭


               鐘楼

この地には、鎌倉時代1224(元仁元年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺
を建立し、あわせて山荘(北山第)を営んでいた。これらは公経の子孫である西園
寺家
が代々所有していた。同氏は代々朝廷鎌倉幕府との連絡役である関東申
を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗後醍醐天皇を西園寺に
招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家
の膨大な所領と資産は没収されてしまう。このためネ西園寺も次第に修理が及ば
ず荒れていった。

1397(応永4年)足利義満河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と
新築によって一新した。この義満の北山山荘は当時「北山殿」、または「北山第」と
呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は
御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。
1394(応永元年)義満は征夷大将軍を子の義持に譲っていたが、実権は手放
さず、北山殿にあって政務を行っていた。義満が死亡すると義持は北山殿に住ん
でいた異母弟
義嗣を移転させ、自らここに入った。翌年には一部を破却して三条
坊門第
に入った。その後義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、
応永19年(1412年)11月に北山院が死亡すると、舎利殿以外の
寝殿等は解体され、
南禅寺建仁寺に寄贈された。また、応永23(1416年)1月に義満が相国寺から
移築した大塔が焼失すると、義持は大塔を本来の所在地である相国寺に再建する
ように命じている。舎利殿は義満の遺言により
禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院」から
鹿苑寺と名付けられた。
夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。夢窓疎
を勧請開山(名目上の開山)としている。 ハハハハハハ

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鏡湖池と金 閣

           鯉魚石


               
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