
影絵 ・文/石井昭さん(宇部興産〜テレビ山ロOB)
瀬戸内海の香港
下関沖に浮かぶ彦島
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1864年、英・米・仏・蘭の4ヶ国の連合艦隊が、下関海峡に襲来しました。前の年に、国の攘夷異国船打ち払い令により米国船ペンプローク号ほかを攻撃したことに対する報復です。 |
| 17隻の軍艦、5千人の軍隊は8月5日から3日間、日本側を凌駕する武力で下関を制圧し、直ちに8月8日から旗艦ユーラリアスで講和談判が開かれました。連合艦隊側の代表はクーパー提督、アーネスト・サトウが通訳に当たりました。長州側代表は、脱藩の罪に服していた高杉普作が、家老宍戸備前の養子・宍戸刑馬に扮して交渉に当たりました。日本側通訳は、英国留学の経験のある、後の伊藤博文と井上馨でした。 | ![]() |
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談判は藩主の信任状を日本側が用意していないことにクレームがついたり、高杉晋作と伊藤博文が刺客に狙われて交渉の席に出られなかったなど紆余曲折があり、それでも8月10日、14日の談判で、下関海峡の安全通行の保障などが取り決められました。この時、連合国から300万ドルの賠償金が要求され、高杉普作は、これはもともと幕府の命令でやったことだからと主張しましたが、結局国は、維新政府に代が変わってからも賠債金を払い続ける始末となります。席上、英国側から、下関沖に浮かぶ巌流島を指呼の間に望む彦島を租借したい、という希望が出されましたが、阿片戦争で敗れた清国の実情を上海で実見していた普作はこれに断然低抗、英国の希望を拒否しました。 |
歴史を学ぶ時「イフ」はあり得ないといいますが、もしこの時英国の思惑が実現していたら、瀬戸内海にユニオンジャックの旗が翻り、その後の日本・アジアの針路は一体どんなことになったでしょうか。
外交の要諦は、たとえ戦に敗れても、自国の国益のために最善を尽くし、護れる限りの物を確保することにあるといいます。ここにも、時代に先駆けた風雲児・晋作の面目躍如たるものがあります。
※今回はテレピ山口での先輩であり、山口市おおすみ歴史博物館副館長の江戸康尹さんに伺いました。