影絵 ・文/石井昭さん(宇部興産〜テレビ山ロOB)

五人の留学生・二人の中退生

日本が開国か攘夷かに激しく揺れ動いていた幕末期の1863年、長州藩の五人の青年が英国に留学するため、密出国しました。伊藤俊輔(後の伊藤博文)、志道聞多(後の井上馨)、そして野村与吉(後の井上勝)、山尾庸三、遠藤謹助の五人です。密航ではありますが藩の黙認を得たロンドン留学でした。
井上 馨 伊藤博文
当時長州藩は攘夷の急先鋒であり、しかし国情急を告げる中にあって、世界情勢を知りたいという井上聞多らの熱情を認めて、極秘留学が実現したものでしょう。当時横浜にあった英国のジャーデン・マディソン商会が渡航の面倒を見ましたが、双方ほとんど相手の言う事を理解できず、留学の目的を海軍(NAVY)というべきところを聞多がうろ覚えで航海(NAVIGATION)と告げたため、伊藤俊輔と井上聞多の乗ったペガサス号という老朽船で、二人は水夫志望とみて徹底的に下級水夫扱いでこき使われました。講義しても通じるはずもなく、特に下痢に苦しんでいた伊藤俊輔は、井上聞多にロープで身を確保されて荒天候の舷側から用を足した事もあったと伝えられています。後の伊藤博文も全くかたなしです
やっとの思いでロンドンに着いたのもつかの間、薩摩藩が英国艦隊と砲火を交え、長州藩も関門海峡を通る外国船に砲撃したとの報に接した二人は、世界の情勢を藩に説くため、1864年慌しく帰国します。池田屋の変の直前の、自主的「中途退学」です。

この後、四カ国艦隊の砲撃、講和、そして幕府の長州征伐、四境戦争など目まぐるしい程の歴史のページが展開し、その中で井上聞多が山口湯田で凶刃に襲われながらも九死に一生を得たりして、やがて明治維新後、伊藤博文・井上馨ともに、隠れもしない明治の元老になります。
それでは残って勉強を続けた三人はといいますと、山尾庸三は1870年帰国、横須賀製鉄所事務取扱、工部卿、法制局長官等を歴任。井上勝は1868年帰国、京浜・阪神間鉄道を敷設、鉄道庁長官、貴族院議員勅選。遠藤謹助は1866年帰国、造幣局長に任じられるなど、立派に留学の実を結んでいます。


*下関在住の作家・吉川薫先生、山口市おおすみ歴史博物館の江戸康尹さんに伺いました